回想録






 このページには、撮影時などの思い出を掲載します。 
 かなり古〜い思い出もありますが、御容赦下さい。

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                 講演会などでの思い出話




   「巨岩の国」


 先日観たテレビで、一流職人4人の“極意”を紹介していました。その中の庭師の極意は、徹底的に庭を簡素化することだそうです。そのため、極端な時は一個の石しか庭に置かないとのこと…。

 その言葉を聞いた時、私は無数の岩に被われ、“岩の庭園”と呼ばれる公園を訪れた時のことを思い出しました。今回は、その時の様子を御紹介いたします。

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 国立公園のゲートをくぐると、景色は一変した。高層ビルのような巨岩が道の左右にそそり立っている。

 「日本なら通行止めだろうな!」

 私はそんなことを考えながらハンドルを握りしめた。

 ここはアメリカ・ユタ州のザイオン国立公園。岩をテーマにした公園が多いユタ州の中でも、特に巨大な岩山の連なることで知られる公園だ。しかし、ザイオンの魅力は岩だけではない。園内にはピューマからカエルまで376種の生物が生息し、856種の植物を見ることができるのだ。また、5月の花々と10月の紅葉は特に美しい。

 園内の見所は、巨大な岩山が集中する中央部のザイオンキャ二オンと、“岩の庭園”と称される公園東部だ。まずは東に向けて車を走らせた。

 岩山に掘られたトンネルを抜けると東部に出る。今まで大きかった岩山は小さくなり、その分、青空が広がった。道なりに続く岩の形は様々で、レンガを突き刺したようにゴツゴツしたものから、砂丘のように平らでツルリとしたものまで個性豊かだ。

 車から降りて岩に登ると、どの岩にもクッキリと地層が刻まれていた。地層は直線的なものが多いが、中には交錯したり、渦を巻いたものもある。岩のわずかな隙間に根を下ろす松もあり、見ていて飽きることが無い。

 翌日は、無料のバスに乗って中央部へ向かった。

 岩山を削ったバージン川に沿って道を曲がると、谷底に入る。道幅は次第に狭くなり、左右の岩壁が車窓に迫った。頂上は高すぎてもう見えない。ドライバーは「どの岩山も600mから1000mの高さがあるよ」と自慢気だ。

 乗客は気に入ったポイントでバスを降り、岩山を見上げたり、谷底をハイキングしたりする。私は終点でバスを降りて川歩きに挑戦したが、川の水があまりに冷たくて10歩も歩けないので、予定を変えて山登りをした。

 向かった先は、ザイオンキャ二オンを一望できる岩山の頂上だ。

 道はキャ二オンを横目で見ながらのツヅラ折りに始まり、昼でも暗い峡谷を抜けて、岩山を巻く急坂へ続いている。途中に鎖場などは無く、花や景色が目を楽しませてくれるので、辛くはない。

 登り始めて5時間。岩山の上に広がる砂漠を横切ると、眼下にザイオンキャ二オンが広がった。垂直に切り立つ断崖に手すりはなく、岩盤に埋め込まれた金のプレートだけが輝いている。

 恐る恐る崖っぷちに近寄ると、遥か彼方にバージン川が見て取れた。

 「細く見えるあの川が、何万年もの時を掛けて、この谷を堀ったのか・・・。」

 感慨にふけっていたその時、何者かが耳元を駆け抜けた。イワツバメだ。ツバメの群が1000mの高所を飛び交っている。そのスピードもさる事ながら、「ビュン」と響く羽音は凄まじい。まさに空気を切り裂くようだ。

 ツバメ達は、しばらくの間 辺りを飛んでいたが、突然、何かに弾かれたように飛び去った。

 ツバメの居なくなった岩山は、静けさだけが残されていた。



「鶏飯(けいはん)」

 

2000年の秋、旅する蝶・アサギマダラを撮影するため、初めて奄美の喜界島へ行きました。

滞在五日目、私が魚料理に飽きたことを察したのか、民宿の奥さんが特別食≠用意してくれました。それが郷土料理の「鶏飯(けいはん)」です。鶏飯は一見すると、名古屋名物の「ひつまぶし」に似ていますが、ご飯の上には鰻でなく、ほぐした鶏肉がのっています。その上に、錦糸玉子や椎茸、そしてパパイヤの漬物などを乗せ、鶏がらスープをかけて食べるのです。
 濃厚でありながらサッパリしたスープは絶品。奄美地方へ行かれたら、是非、お試しあれ!

 

 

   「松島菜々子と一緒!?」


 昔、松島菜々子さんが登場するCMを見て、思わず苦笑いをしたことがあります。
 そのCMは、アメリカのハンバーガーショップらしき場所が舞台なのですが、松島さんがハンバーガーを注文したのに対し、応対した店員が次々と質問を返してくるのです。でも、英語が苦手な松島は、曖昧に微笑んで「
Yes」としか答えません。その結果、とても食べきれない大きなハンバーガーが出てきてしまうのです。

 実は、私も同じような経験をしたことがあります。今日は、その内の3つのお話しを致しましょう。

 最初の経験は、アラスカの小さな港町での出来事でした。私は夕食を摂るため、あたりに一軒しかないレストランへ一人で入ったのです。入口に置かれたメニューボードには、 “本日のスペシャルメニューは、蟹料理” と書かれていました。席に案内された私は、迷わず「スペシャル プリーズ!」と言って注文したのです。

 その後は、CMの松島と同じです。店員は私に次々と質問を浴びせましたが、私はその意味がほとんど理解できません。仕方なしに微笑みながら「Yes」を繰り返しました。その結果、私の目の前に出てきたのは、タラバガニのように巨大な蟹だったのです。私は呆気にとられましたが、店員は、そんな私を尻目に、その後も次々と料理を運び、ついには、テーブルが一杯になってしまいました。その時の心境と言ったら、穴があったら入りたいほど恥ずかしい気持でした。

 唯一の救いは、請求された料金が11ドルだったことでしょうか?

 2度目は、モンタナ州での出来事です。テイクアウト専門の小さな店で、私はハンバーガーとパスタとサラダを一品ずつ注文しました。日本のハンバーガーショップのように、どの品も少量の物だと思っていたからです。

 ところが、数分後に目の前へ出てきたのは、全てが特大サイズの品々でした。ハンバーガー一つで満腹になりそうなのに、パスタも大盛りです。そのうえ、ハンバーガーにもパスタにもサラダが付いていたので、サラダは3皿になってしまいました。私は食べるどころか、その品々を持ってテイクアウトすることさえできません。

 そう言えば、注文した時店員は、「お前が食べるのか? ○△※□・・・」と言っていました。私は全てを理解しないまま「Yes!」と答えましたが、店員は「大変な量になるが、お前一人で食べきれるのか?」と言っていたのでしょう。

 あ〜、穴があったら入りたい!

 3度目は、ワイオミング州のレストランです。

 今回は、「質問の意味が理解できるまでは、絶対に“Yes”と言わないぞ!」と決めていました。でも、だからと言ってヒアリングの能力が急激にアップするはずありません。例によって店員からの質問攻めに遭った私は、結局、首をひねりながら腕を組んで固まるしかありませんでした。

 これには、質問をまくし立てていたウエイトレスも困り果てた様子です。ついに彼女も、腰に手をあてて黙り込んでしまいました。私は、“もう、何でも良いから持ってきてくれ!” と言いたい心境です。

 ところが、思わぬ所から助け船が現れました。とつぜん、隣のテーブルで食事をしていたオバサンが立ち上がり、彼女の息子が食べていたライ麦パンと娘が食べていた食パンの切れ端を左右の手に持って、私に向けて交互に掲げているのです。他にも、オバサンは自分たちのテーブルに並んだスープ皿やサラダボールを交互に指さしています。

 有り難いやら恥ずかしいやら・・・。でも、背に腹は替えられません。私はオバサンのテーブルまで行って、好みのパンやスープを指さして、無事に注文を終えました。

 オバサン、本当にありがとう!



  「人生43年」


 先日、「ラストメッセージ」というNHKの番組を観ました。その日の主人公は、冒険家の植村直己さんです。流れる映像にも響く声にも記憶があり、懐かしい想いにひたりながらの一時でした。

 ところが、あるコメントを境に、映像も音声も私の心に届かなくなりました。

 「植村は43歳で亡くなった・・・」

 43歳といえば、星野道夫さんの亡くなった年齢でもあります。

 そして私は、その43歳を遙かに超えました。

 43か〜。

 う〜ん。




「ヘラジカのシチュー」

 

真冬のアラスカで食べた「ヘラジカのシチュー」は、忘れることができません。

ヘラジカとは、体重が750キロにもなる世界最大の鹿ですが、アラスカでは、我々日本人が潮干狩りをするような感覚で狩猟して食べています。定宿にしていたB&Bの大型冷凍庫にも、御主人が狩ったヘラジカの肉が大量に入っていました。味は牛肉そっくりですが、脂は少なく、臭みもありません。どんな料理にも適しています。中でもシチューは絶品で、オーロラ撮影で冷えた私の体を何度も温めてくれました。

 

 


  「アラスカを去る日」


 晩秋になると、我が家のカナダカエデは黄葉して葉を落とし、庭は黄色の絨毯を敷きつめたようになります。そんな光景を見ると、私は、撮影を終えてアラスカから帰国する日の事を思い出さずにはいられません。今日は、その時の事を回想しながら書き込みます。

 アラスカでの撮影を始めた当初、私はデナリ国立公園で3ヶ月のキャンプをしたのち一旦帰国し、すぐに再渡米して3ヶ月のキャンプを続けるという生活を繰り返していました。米国での滞在許可が90日しか得られなかったからです。

 そのため、デナリでは “ぬし” のような存在になり、ちょっとした“有名人”でした。何しろ、初めて会った人から「佐藤さんですね!」と言われたり、キャンプ場内を「佐藤さんは居ませんかー!?」と叫びながら、私を捜し回る人が出没したりしたのです。

 初めは「何で俺の事を知っているんだろう?」と不思議に思いましたが、彼らから話を聞いてみると、「○○で出会った△△さんから、“デナリへ行くなら佐藤さんを頼って行け!”と言われました。」と異口同音の答が返ってきます。 “△△さん”とは、皆、数日前にデナリで出会ったバックパッカー達です。

 そんな“珍客”も8月下旬になると少なくなります。その頃になると、デナリは冬の顔を見せ始め、“にわかキャンパー”を拒むからです。雪が降ったり、氷点下まで冷え込んでテントがバリバリに凍り付いたりする朝も珍しくありません。

 でも、一方でその頃は、紅葉が美しくなり、ヘラジカの雄同士がメスを巡って闘ったり、ヒグマがブルーベリーを求めて道沿いまで出て来たりするので、カメラマンとしては待ちこがれた季節です。その光景を撮るために、世界中から有名なカメラマンが集結し、動物の周りにはレンズの砲列が敷かれます。(あるとき、膝を痛めて歩けなくなった私を車に乗せて助けてくれたのは、何と、有名な写真家の Kennan  Ward  でした。)

 ところが、そんな良い季節も長くは続きません。アラスカの秋は一気に駆け抜けて冬が来るので、9月10日頃になると、シャトルバスの運行が止まり、キャンプ場は閉鎖されてしまいます。つまり、国立公園内に滞在することはもちろん、入ることも出来なくなってしまうのです。(一応、デナリ国立公園は年中オープンしていますが・・・。)

 でも、私はデナリの入口付近の森に一人で残り、撮影を続けました。もちろん、そんな輩が森に潜んでいることなど、私と動物以外、誰も知りません。

 “冬の到来”を撮りたい一心での居残りでしたが、この一人ぼっちのキャンプは、実に寂しくて辛いものでした。

 撮影している時は辛さを忘れますが、テントに戻ると、たちまち気分は落ち込みます。

 テントを張った森には木枯らしが吹きすさび、聞こえて来るのは落ち葉と枝のきしむ音だけ。話し相手は誰も居ないし、食料は次第に底をつきます。おまけに日照時間は日に日に短くなるし、冬眠を控えて腹を減らしたヒグマが近くを徘徊しているなんて考えたら・・・。 “もし事故に遭遇しても誰も助けてくれないし、気付いてさえくれない!”と思えば、なおさら気分は滅入ります。

 そんな一人きりの状態で9月いっぱい撮影を続け、いよいよ帰国する日の朝が来ました。

 荷物をバックパックに詰め込むと、テントが張ってあった周りは色づいたポプラの落ち葉が敷きつめられ、まるで黄色い絨毯が敷いてあるようです。半年前にデナリへ来たとき、あたりが1メートルの雪に被われていた事を思い返すと、感慨もひとしおです。

 その光景を目に焼き付け、私はデナリを後にしました。

 背後から、枯葉の舞う音が聞こえました。



  「死なないで」


 悲しいことですが、毎日のように“イジメ”が原因と思われる子どもの自殺が報道されています。

 子を持つ親としては、無関心ではいられません。「自分の子どもも、いじめられていないか?」また、「いじめてはいないか?」と・・・。

 私が子どもだった頃も“イジメ”はありました。

 良い子ぶる訳ではありませんが、私は、いじめっ子を一喝したり、学級会に諮って、イジメを止めさせる側の人間でした。

 そんなことをしたら、今なら逆に私がいじめられるかもしれません。でも、当時の私はイジメに遭った経験が無いのです。

 喧嘩が強かったわけではありません。体も小柄だし、勉強も、特別できる方ではありませんでした。それなのに、どうして私はイジメられなかったのでしょう?
 この理由を追求すれば、“イジメ問題”の解決策の糸口が見つかるかもしれません。当時は、友人同士の縦横のつながりが今よりも強かったからでしょうか? それとも、もっと大きなネットワーク(親や地域の人々とのつながり)が有ったから、その“つながり”に守られていたのでしょうか?

 

 イジメられて辛い思いをしている子どもたち。絶対に死んではいけませんよ。

  “死”を考えるくらいなら、学校へ行くことを止めなさい。“イジメ”のはびこる学校なんか、命を懸けて行く必要はありません。

 生きてさえいれば、どこでも勉強は出来ますし、大学卒業の資格だって得られます。

 そして、“恥ずかしい”なんて思わないで、お父さんやお母さんに打ち明けてください。 きっと、優しく受け止めてもらえるはずです。

 私は子を持つ親として、自分の命を懸けてでも我が子を守りたいと思っています。

 そして同時に、家族を悲しませないため、将来の可能性を捨てないために、自分の命を大切にしています。



  「アラスカヒグマとの出会い」


 秋になると、「クマが人里に出没した」という報道を毎年のように耳にします。

 山の広葉樹が針葉樹に植え替えられたりして、クマの餌となるドングリなどが減り、飢えたクマが人里へ降りるのが主な原因のようです。

 最近でこそ、クマを生け捕りにしてから山奥に連れて行って放すという対応が増えてきましたが、多くの場合、人里に降りたクマは駆除されてしまいます。死んだクマの映像を見るたびに、私は居たたまれない気持ちになり、アラスカで遭遇した“不思議な熊たち”のことを思い出さずにはいられません。

 今日は、その不思議な体験のお話を致します。

 20歳代の半ばまで、私はアフリカに夢中で、毎年、ケニアやタンザニアへ行っていました。ところが、ある時、“地球は広いのだから、きっとアフリカ以外にも面白い場所があるに違いない!”と思い、アラスカへ行くことに決めたのです。

 その行き先は、「マクニール・リバー・サンクチュアリー」。別名“アラスカヒグマの聖域”と呼ばれている場所です。あまりにも奥地なので、旅行社でさえ「どこに有るんですか?」「どうやって行くのか分かりません」と回答してきた程です。そのため、計画から実現までに2年もかかり、更に、現地へ辿り着くまでの移動には大変な苦労が伴いました。でも、私はどうしても、鮭をむさぼり喰うアラスカヒグマが見たかったのです。

 1989年・8月。私は水上セスナなどの飛行機をいくつも乗り継ぎ、最後は小さなボートに乗って、カミシャークと呼ばれる入り江の岸に上陸しようとしていました。ところが、その岸には、何頭ものヒグマがうろついています。いよいよ、アラスカヒグマの聖域に辿り着いたのです。

 ヒグマが居なくなったのを見計らって上陸すると、その裏にキャンプ場がありました。キャンプ場と言っても、ファイヤーウィード(ヤナギラン)の咲き乱れる草原に10張りくらいのテントが張られているだけで、施設らしい物は、食料を保管する小屋と、電話ボックスのようなトイレがあるだけです。ヒグマから身を守るためのフェンスもありません。そこに、15名くらいの白人が滞在していました。

 マクニール・リバー・サンクチュアリーは、入場が厳しく制限されているので、役人と特別な許可を得た学者以外は、抽選に当たった人しか入場できません。当時は、確か一日10人、滞在は3日までと決められていたはずです。

 私は年度初めに行われた抽選に漏れたので、近く(と言ってもアラスカ尺度なので相当遠い)にある別のキャンプ場に滞在しながら、キャンセルが出るのを待ち続け、やっと1泊の許可を得たのです。

 キャンプ場に到着したのが夕方だったので、私は急いで夕食を食べ、シュラフに潜り込んで目を閉じました。「海岸はヒグマの通り道だから気をつけろよ!」と言われた言葉が頭から離れません。何故なら、私のテントは海岸から10メートルも離れていないのです。

 翌朝は快晴でした。我々は、さっそく隊列を組んで出発です。

 列の前後は、ガイド兼ボディーガードが固めます。二人とも、肩には大きなショットガンを担ぎ、腰にマグナム銃を携えています。

 しばらくは海岸線を歩きましたが、マクニール・リバーの河口が見え始めた所で草原に分け入り、海岸から離れました。草丈が1メートルくらいあるので、見通しは利きません。私は、遅れないように歩を速めました。ところが、行軍はすぐに止まりました。そこは、あたり一面の草がなぎ倒されています。ガイドが指さす方を見ると、鮮血と共に鮭の死骸が転がっていました。どうやら、つい今しがたまで、ここでヒグマが食事をしていたようです。

  私は背筋が寒くなりました。

 さらに歩き続けると、大きな水音が聞こえてきました。まわりには、鮭の死骸が散乱しています。ヒグマの集まる場所に近づいたのです。

 目の前が開けると、そこには、ゆるやかな滝が幾つにも別れて横たわっていました。ここが今回の最終目的地「マクニール・フォール」です。

 滝には10頭以上のヒグマが居ましたが、幸いなことに、草むらから現れた人間を気にする様子はありません。私は物音を立てないよう気をつけながら、カメラを三脚にセットしました。

 突然、目の前のクマが飛沫を揚げて水に飛び込みました。すると、黒かった水が二つに割れて生き物のようにうねります。水は、夥しい数の鮭で黒く見えていたのです。

 ファインダーから目を離してフィルムを交換していると、対岸の草むらから親子連れのクマが現れました。さらに、下流に転じると、黒くて巨大なオスが遡って来ます。ついには、我々の後の草むらから、小山ほどもあろうかというヒグマが、“ヌッー”と現れて川へ入って行きました。人との距離は20メートル。その間、柵のような隔たりはありません。

 呆気にとられていると、鮭を捕まえたクマが、手前の岸に上陸して獲物をむさぼり始めました。滝の下の淵に顔を浸けて、鮭を待っていたクマです。

 他にも、滝の上に立って跳ね上がる鮭を待つクマや、やたらと走り回って鮭を追うクマがいますが、淵で待つのが、一番効率が良いようです。そのクマは、淵と岸を何度も行き来し、どのクマよりも多くの鮭を食べました。今では腹がふくれたのか、イクラしか食べません。

  突然、そのクマが鮭をくわえたまま、私の方へ歩いてきました。一同に緊張が走ります。もう10メートルも離れていないので、逃げることはできません。私はカメラを握りしめたまま、動けなくなりました。

 “襲われるんだろうか?”そんな不安と闘いながら、目だけでクマを追い続けると、クマは私に一瞥することもなく、私のすぐ横を通り過ぎて草むらへと消えました。

 距離は3メートル。震えが止まりませんでした。

 後から聞いた話ですが、私のような体験は、マクニール・フォールでは珍しい事ではないそうです。クマが通りすぎてから、ガイドが私に、「ここのクマは人を襲わないんだ」と話してくれました。餌が豊富なので、危険を冒してまで人を襲わないのでしょうか? それとも、人から危害を加えられたことがないので、人を“友人”とでも思っているのでしょうか?

 日本でも、こんな関係がクマと人の間で築けたら素敵ですね。

【あとがき】
 帰国後読んだ本には、「たった一度の経験で、“クマは友だち”と言って丸腰のまま原野に入るのは、野生動物と生死を懸けて闘ってこなかった農耕民族である日本人の甘さだ!」と書かれていました。そして同時に、「狩猟民族であった欧米人は、“クマは友だち”と言いながらも銃は決して手放さない」とも。確かに、あのガイドは・・・

【ヒグマの豆知識】
 文中で「アラスカヒグマ」と書いた部分がありますが、実は、日本にいる“エゾヒグマ”と、アラスカにいる“アラスカヒグマ”。さらには、ヨーロッパのヒグマも、全て同じ種類、つまり、ただの「ヒグマ」です。

 ちなみに、“灰色熊”とか、“グリズリー”もヒグマのことですが、アラスカでは、内陸に住んでいるヒグマのことを“グリズリー”と呼び、沿岸に住んでいるヒグマを“ブラウンベアー”と呼び分けることがあります。

 内陸のヒグマは餌が乏しいので比較的小型ですが、沿岸のヒグマは鮭などの餌が豊富なので巨大になります。最大のクマの記録は体重が800キロを超えています。エゾヒグマの大きな個体が2〜300キロくらいですから、アラスカのヒグマがいかに巨大かが分かります。

 体色は茶色の個体が多いですが、黒っぽい個体や、クリーム色の個体、さらには、金色に見える個体まで多様です。



  「アラスカの巨大な蚊」 


 今夜、家の中で蚊に刺された。

 「11月に蚊が居るのか?」と思いながら探すと、居た居た。ふだん見ない茶色い蚊が! しかも大きい。

 その大きな蚊を見たら、アラスカの蚊を思い出した。

 アラスカの蚊も大きいのだ。

 1996年。私がカメラマンとしての第一歩を踏み出したのはアラスカだった。北米大陸最高峰(マッキンレー・6194メートル)の麓に広がるデナリ国立公園で、キャンプをしながら撮影を始めたのだ。

 渡米したのが6月で、ちょうど蚊が大発生する頃だった。

 その数は尋常でなく、蚊に“たかられている”人を遠目に見ると、まるで黒煙に巻かれているように見えるのだ。

 夥しい数の蚊は、口・鼻・目・耳など、あらゆる穴に入り込んでくる。

 ただでさえ鬱陶しいのに、刺されると痛い。そして、猛烈に痒い。

 雉撃ち(屋外で用足しすることを意味する隠語)に行くときなどは悲惨だ。ズボンを降ろすと、下半身は、たちまち蚊の餌食になる。

 かつて先住民には、罪人を裸にして屋外に放り出すというリンチがあったらしいが、この苦しみを味わえば、その罰も頷ける。

 蚊は、“ジャングル・ジュース”という名の虫よけオイルを塗ると、一時的に刺さなくなる。でも、居なくなる訳ではなく、どこまでも追いかけて来る。

 ただ、日本の蚊に比べると、動きが遅い。

 気温が低いためか、それとも人に叩かれた経験が無いためか、手の平で叩けば、簡単に仕留められるのだ。

 闇雲に頬を叩いたら、5〜6匹の蚊が手の平で死んでいた。

 夥しい数の巨大な蚊は、撮影にも影響を及ぼす。

 ピントが近くから遠くまで合う広角レンズを使った場合は、必ず画面のどこかに蚊が写り込んでしまうのだ。レンズやフィルムの交換時に蚊がカメラに入れば、カメラはきっと壊れるだろう。

 アラスカの蚊を 侮るなかれ!!




「サンマ」

 

撮影のためのキャンプ生活が長くなると、頭の中は食べ物のことで一杯です。アラスカの原野でキャンプしていた頃の撮影日誌を読み返すと、食べたい物のことばかりが書き込まれ、好物のサンマが何度も登場してきます。

そんなキャンプを終えて三ヶ月ぶりに日本へ帰ると、三陸から獲れたてのサンマが山ほど届きました。差出人は、アラスカで出会った日本人青年です。どうやら私は、彼にサンマの話ばかりをしたようです。

顔を赤らめて食べたサンマの塩焼。今も忘れられません。





  「ヒグマと ぶつかった!?」 


 今日の記憶の舞台はアラスカではなく、アメリカ本土にあるグレーシャー国立公園です。

 ここは、氷河の削った山並みが美しい山岳公園で、マウンテンゴート(しろいわやぎ)や、ビッグホーンシープ(おおつのひつじ)などの大型ほ乳類が間近で見られます。

 私の目的も動物の撮影でした。

 でも、今回の話は、湖を撮影するため、車を走らせている時に起こった出来事です。

 私は朝焼けに間に合うよう、日の出の2時間前にテントを出ました。

 季節は夏でしたが、標高が2000メートル近くあるうえに早朝だったので、震えるほどの寒さです。私は急いで車に乗り込みました。

 車のヒーターが効き始めたころ、私は長く続く直線道路を飛ばしていました。

 街路灯はなく、ヘッドライトだけが頼りです。

 しばらく行くと、明かりの中に何かが浮かび上がりました。茶色くて、大きな何かが・・・。

 「誰かがイタズラして、ゴミ箱を道の上に置いたんだな!」

 国立公園に設置してあるゴミ箱は、景観を損なわないよう茶色く塗られていたので、私は、そう思い込んだのです。

 私は、ハンドルを切れば横を通り過ぎることが出来ると判断して、スピードを落とさないまま走り続けました。

 すると、 “ゴミ箱” が振り返りました。

 “ゴミ箱” だと思っていたのは、背を向けて座っていたヒグマだったのです。

 私は慌ててブレーキを踏み込みました。タイヤのきしむ音が けたたましく響きます。 スピンこそしませんでしたが、車は少し左に傾きながら滑り始めました。このままでは、クマとぶつかってしまいます。私はハンドルを左に切りました。すると、それまで動かなかったクマも、左に向かって走り出すではありませんか!

 「あー、ぶつかるっ!」

 そう思った瞬間、クマがボンネットの陰に隠れて見えなくなりました。同時に、車が激しく揺れて止まります。

 「轢いてしまった!」

 頭の中は真っ白です。

 ところが、すぐにボンネットの陰から、クマが “ヌー” っと顔を出すではありませんか! 私は「ホッ」とすると同時に、「襲われる!」と思いました。

 でも、ヘッドライトに照らされたクマの目に怒りはなく、振り向き気味の視線は弱々しくさえ感じます。

 こんどは、「怪我をしたのか?」と心配しましたが、クマは、はじかれたように走り出し、道路脇の藪へと駆け込んで行きました。

 結局、このグレーシャー国立公園でヒグマを見たのは、この時だけでした。

 もちろん、写真はありません。

 でも、ヘッドライトの中で光った目を 私は忘れることはないでしょう。

 ヒグマとの一瞬の出会いの話でした。



 「アフリカの気球」


 先日、熱気球大会の様子をニュースで見ました。たくさんの気球が青空に舞い上がる様は壮観です。特に、夜はバーナーの炎が気球の絵柄を闇に浮き立たせ、本当に綺麗でした。

 そんな映像を見ていたら、20歳のときに初めて行ったケニアでの体験を思い出しました。今日は、その時の話を紹介いたしましょう。

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 朝5時、私たちはサファリカーに乗ってサバンナを走っていた。

 あたりは暗く、ヘッドライトの照らすところ以外は何も見えない。

 やがて、車が止まった。そこでは赤い作業着に身を固めた黒人達が、声を掛け合いながら忙しそうに動き回っている。何かを広げているようだ。

 車から降りると、たちまち刺すような冷気に包まれる。

 風が強い。

 黒人達が広げていたのは、熱気球だ。赤と黄色の布からできた気球が、サバンナの上に横たわっている。

 「大きいなあ、これに乗って飛ぶのか!」

 皆、口々に叫んだ。

 突然、“ブルルルーン”と、プロペラ音が響く。化け物のように大きな扇風機が、気球の中に空気を送り込み始めたのだ。気球は、まるで生き物のようにムクムクと動きだし、膨らんでいく。我々の期待も膨らんだ。

 扇風機が取り除かれると、パイロットの制服に身をかためた白人が、巨大なガスバーナーに手を掛けた。

 「ゴー」

 凄まじい爆音だ。カメラを構えていた人達が飛び退いた。

 ロケット噴射のような炎が、くびれた気球の入口に突き刺さっている。「布に炎が燃え移らないのか?」と、心配になるほどの勢いだ。

 その心配をよそに、暖められた気球は次第に頭をもたげて、そびえ立った。見上げると、空が白々と明けている。

 パイロットの手招きで、一同がゴンドラに乗り込んだ。

 ゴンドラは“田の字型”に仕切られていて、真ん中にバーナーが置かれている。全部で12人くらい乗れる大きさだ。

 我々は、腰をかがめて離陸の瞬間を待った。

 ところが、衝撃とともに、突然ゴンドラが横転した。そして、“ズズズズーッ”と引っ張られる。

 強い風にあおられて気球が流され、ゴンドラが引きずられているのだ。

 「またか!」

 私は舌打ちした。昨日も風が強くて飛べなかったのだ。

 しばらくの間、ゴンドラはそのまま引きずられたが、やがて何とか立ち直り、動かなくなった。「もうすぐ、パイロットが“Sorry 今日は風が強くて飛べない”って言うぞ!」と思いながら、私は自分の運の無さに腹が立った。

 ところが、隣で腰をかがめていた女性が、ゴンドラに開いている小さな穴から外を覗きながら、「あー、飛んでる!」と叫ぶではないか。

 「そんなバカな!」と思って立ち上がると、ゴンドラはサバンナに別れを告げ、白み始めた空へと滑り出していた。そのスピードは意外と速い。地上で手を振る黒人達が、見る見る小さくなっていく。

 だが、パイロットの表情は真剣なままだ。間近に迫った森をやり過ごすため、バーナーの火力を最強にして気球を上昇させている。一同は黙って成り行きを見守った。

 やっとの思いで森を飛び越え、気球が充分な高さまで上昇すると、パイロットの表情が穏やかになった。我々もホッと胸をなで下ろす。と同時に、ゴンドラは歓声に包まれた。

先ほどまでの心配が大きかっただけに、喜びも ひとしおだ。

 やがて、地平線から朝陽が昇り始めた。露の降りた草原は金色に輝き出し、皆の顔が赤く染まる。暖かい。

 「大きいな〜!」

 景色を見ながら、誰かが つぶやいた。

 確かに、上空から見るアフリカは、“広い”と言うより、“大きい”と言った方がピンと来る。グルリと取り巻く地平線は、平面的な広さではなく、地球規模の大きさを感じさせてくれるのだ。

 水を飲むゾウが、小さく見える。

 太陽が高度を増すと、気球の影がサバンナに現れた。

 その草原では、一夜を無事に過ごしたヌーとシマウマ達が、気球に驚いてか、それとも朝食を求めてか、移動を始めている。

 森の上に差し掛かると、キリンが慌てて走り出た。

 それにしても、気球とは何と静かな乗り物なのだろう。

 バーナーを焚いていたときは、うるさくて仕方なかったが、バーナーを止めた今は、はるか地上で さえずる小鳥の声さえ、手に取るように聞こえるのだ。

 また、あれほど強く吹いていた風を全く感じない。

 私たちは、風と一緒に移動しているのか?  風になって飛んでいるのか!

 離陸から1時間ほどが経ったころ、気球の高度が次第に下がってきた。どうやら、この先のサバンナに着陸するようだ。

 ゴンドラの底が草にすれて “サラサラ” と音を立て始める。移動するスピードは、意外に速い。一同、着陸に備えて腰をかがめた。

 “ドスン、ズルズルー”

 ゴンドラは、しばらく引きずられて横倒しになり、やがて止まった。

 「ライオンは居ないのかな?」と心配しながら這い出ると、自分の視線がいかに低くて、つまらないかを思い知る。先ほどまで見えていた丘の向こうの草原や、森の中に居たキリンの親子は、もう見えない。

 間もなく、サファリカーで追ってきたスタッフが到着して、慌ただしく朝食の準備が始まった。

 何も無かったサバンナには、真っ赤なクロスの敷かれたテーブルが並べられ、クロワッサンやフルーツ、それにシャンペンなどが載せられる。脇では、コックが卵やベーコンを焼き始めた。

 その手際の良さに、我々は、ただ唖然とするばかりだ。

 居場所を追われたガゼルが、恨めしそうに こちらを見ている。

 「人間の食事は、ずいぶん騒がしいなあ」とでも言いたげな表情だ。

 私は心の中で詫びながら、シャンペンを飲み、ベーコンを頬張った。

 小鳥の声が聞こえない草原に、強い風が吹いていた。



  「サボテンの森」 


 今日、園芸店で赤ちゃんサボテンの鉢を見つけました。

 あまりの可愛らしさに、思わず手を伸ばしましたが、その時、またまた旅先での出来事を思い出しました。「サボテン」と言えば、“砂漠”。 今回は、砂漠を旅したときのお話しです。

 “砂漠”と聞くと、気軽には行けない特別な場所のように思えますが、アメリカにはアクセスの簡単な砂漠があると聞いたので、暑さが厳しくなる前の5月に出掛けてみました。

 場所は、アメリカ・アリゾナ州のソノラ砂漠。その中にあるサワロ国立公園が今回の旅先です。


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 リゾート地としても栄えるツーソンで車を借り、舗装道路を走ること30分。あっ気ないほど簡単に目的地へ到着した。

 ところが、そこは私が想像していた砂漠とは裏腹に、意外なまでに緑の豊かな場所だった。大小様々なサボテンや背丈の低い潅木類が生い茂っている。レンジャーの説明によれば、春になるとサボテンやカリフォルニア・ポピー等の花々が咲き乱れるらしい。生物も多い。爬虫類を中心に、鳥類や小型の哺乳類が生息し、命のドラマを繰り広げている。

 しかし、何と言ってもここでの主役は、公園の名前になっているサワロ・サボテンだ。

 西部劇に登場するこのサボテンは、和名を弁慶柱と言い、その名の通り大きな柱状をしている。樹齢が75年を過ぎたものは、人がバンザイをしているように枝を伸ばし、200年を生きたものは、高さが15mを超す。そんなサボテンが、園内至る所にニョキニョキと生えているのだから、人々の目はサボテンに釘付けになる。私も道沿いに巨大なサワロ・サボテンを見つけたので、車を降りて近づいてみた。

 車外の猛烈な熱さもさることながら、根元から見上げるサボテンの迫力には度肝を抜かれた。

 大きい。これがサボテンなのか! 高さは、3〜4階建のビルくらいありそうだ。太さも私一人が手を回しただけでは測れない。そのうえ、黒ずんだ表皮は岩のように硬く、少々叩いたくらいではビクともしない。まさしく弁慶だ。

 園内には、これらのサボテンや砂漠の自然を身近で観察できるよう、多くのハイキングコースが整備されている。あまりの暑さに車から降りる人さえ居ないが、私は、コースの一つを歩いてみた。すると、小さなトカゲ達が砂漠の道案内をしてくれる。私の前を進んでは止まり、止まっては進む。止まるたびに後ろを振り返るのは、私が倒れていないか確かめているのだろうか? いつしか、ウサギとキツツキも行列に加わったが、どうやらキツツキは私を追い払いに来たらしい。近くのサワロ・サボテンを見上げると、太い幹にはキツツキの巣穴が開き、中から可愛いヒナ達の声がした。

 歩くこと30分。汗だくになって丘を登ると、そこからの景色に息を呑んだ。巨大なサワロ・サボテンが、見渡す限りの砂漠を埋め尽くしている。人型のサボテンが林立するその様は、壮観を通り過ぎて奇異でさえある。まるで、どこか他の星に降り立ったようだ。

 そんな景色に見とれていると、いつしか日は西に傾き、砂漠には涼しい風が吹き始めた。空には無数のコウモリが飛び交い、地上ではうるさいほどに虫達が鳴いている。

 突然、目の前を黒い影が横切った。夜行性の動物が活動を始めたようだ。

 夜の砂漠は、暗くて不気味だが、生物たちの、活気であふれている。

 本当の砂漠は、これから始まるのかもしれない。



 


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